2010年3月4日木曜日

ほんのぴょっぴり鹿児島気分

鹿児島ブログ編第3夜となりました☆
昨日の幻の第3回を見た人がおられたらごめんなさい。

ということで、気を取り直して・・・・。
翌朝、ホテルでしばし休息をした後、本日引き渡し予定の店舗へと直行しました。
やはり工事がおしていたようで、午前から夕方前までは作業ができず、ひたすら外観を眺めることとなりそうな様子。
ただ、ちゃくちゃくと完成まで進んでいっていました♪
とりのすけが出来上がるに連れて、何としても成功してほしいという気持ちが強くなっていました。
作業したくてたまらなかったんですが、まだまだその段階ではなく、手持ち無沙汰な感じに。

ということで、せっかくの鹿児島。
恭平ガイドのもと「これぞ鹿児島」を探しに行くこととなりました。
突発的な旅なので当然ノープラン。
行くあてもなくフラフラ彷徨うこと5分ほど。
らしき建物がありました☆

その後もひたすら歩きましたが、せっかくなので例の市電に乗って、もっと観光地が密集しているエリアへ行こうと言うこととなりました♪




地名はちょっと覚えていないんですが、
「小松帯刀像」
明治維新の推進者だそうです。
京都二条城会議で真っ先に署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた功績のある御方です。

「カヤ」
西郷隆盛の愛犬だそうです。
表情を見ていると西郷さんと同様、「志しは高く」って感じですね☆

「公民館」
特になにもありませんが、歴史の重みのある公民館です。

そしてこれぞ鹿児島。
「西郷隆盛像」
ウィキペディアによると、
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて江戸総攻撃に反対したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの求めに応じ、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

という人みたいです☆
教科書では見たことありますが、意外と最近の御方だった事がびっくりです。

まだまだ黎明館にもいかせて頂き、大変勉強になりましたが、撮影はNGとのこと。
数時間のことでしたが、十分これぞ鹿児島を堪能し、再び気を取り直してお店へ☆
だいぶ工事も終わりなんとか作業開始できるような状態へ。
工事の方の表情やオーナー様店長様の表情は真剣。
プロフェッショナルを感じました。
僕たちも負けてられません☆
気合いを入れなおし、遅れた分取り返す覚悟を決めて挑みました♪
次の日はプレオープン!!
頑張りまっす。

明日はいよいよブログ編最終夜。
「作業は間に合ったんでしょうか。」的な感じで。ゆうすけ